靴は、露台の階を降りたところで脱いだ。
ついでに官服の裾をたくし上げて帯に挟むと、陽子は雲海の波が打ち寄せる渚をゆっくりと歩き始めた。
素足で踏みしめる湿った砂の感触が心地良い。
傾いた日が作り出す長い影と、ゆるやかに行き来を繰り返す波の形を眺めながら、陽子は心の底にひそむ緊張感を自覚しつつ、それでも久方ぶりに味わう一人きりの開放感を楽しんだ。

***


赤楽四九八年、初夏。
あと一年半余りで登極五百年を数える。
その事実が、陽子には今ひとつぴんとこなかった。
目の前の事と少し先の事、それらを見据えてただひたすらに日々を過ごしてきた結果、気付いたらそれだけの年数が経っていた、というのが正直な感想だ。
だが、思えば百年の節目の時も三百年の時も同じ様に思った覚えがあるから、案外年を重ねるというのはそういうものなのかもしれない。
しかし、一方で、五百という数に特別な思いもある。
陽子が登極する際に力を貸してくれた隣国の王が、当時既に治世五百年を超える御仁だったからだ。
その遥かな年数に感嘆し、それに比した国の豊かさにため息をついた。
その思いは、泰麒の件の後も何かと理由をつけては気軽に現れる延の主従を見て、さらに深まった。

「私も五百年経てば、あのように頻繁に出歩ける余裕ができるのかな」

客人を見送り積翠台に戻った陽子は、堂室を出た一刻前より明らかに増えている書類の山を目にし、思わず呟いた。
政務の補助をすべく随行してきた男は、その言葉に僅かに口角を上げた。

「恐れながら、延王君は余裕があるから出奔なさるわけではないと推察いたしますが……ただ、政務の慣れについて仰せならば、五百年も必要ありますまい。せいぜい五十年。百年もあれば嫌でも身につきます」
「それでも五十年、百年か……」

半世紀、あるいは人の一生分の歳月だ。

――果たして自分はそれほど保つのだろうか。

染み出した弱気を、陽子は頭を一振りして散らした。
やってみると決めたのだ。
今さら自分を疑ってどうする。

「百年など、いざ振り返ればほんの一時でございますよ」

それ以上続く事を当然とした口ぶりに、陽子は心中の葛藤を見透かされたような気がして、居心地悪く肩を竦めた。

「……それは浩瀚の私見か?」
「ええ。ですが、古株の官吏は大概同じようなことを申しますね」
「つまり、浩瀚も百歳を超えているんだな。一体今年で幾つになるんだ?」
「確かに主上よりは多少年を重ねてございますが、それ以上はご想像にお任せいたします。……さて。では、少しでも早く政務に親しんでいただくためにも、そろそろ再開して宜しいでしょうか?」

雑談はここまでとばかりに答えをはぐらかした男に、しかし、陽子は逆らうことなく素直に従った。
てきぱきと卓上の書類を仕分けていく浩瀚の横顔は、やはりどう見積もっても三十そこそこにしか見えない。
常世の仕組みを知り、仙とはそういうものだと頭では理解していても、感覚は未だ違和感を訴えていた。
だが、と、陽子は思い直す。
議論の鮮やかさや人を見抜く目、数歩どころか数十歩先を見据える先見の明、さらには事前の根回しの巧妙さなど、別の面から見れば、いくら頭脳明晰だろうと三十を少々超えた程度では備え切れない人生の蓄積が、確かに男からは透けて見えるのだった。

そんな風に一目置き、また政務の片腕としてこの上なく頼りにしていた彼を、一人の男として興味深く、また好ましく思うようになったのは、果たしていつからだったろう。
しかし、それと自覚した感情を、陽子は注意深く内に秘した。
いや、友人でもある女史や女御からは時々思わせぶりに揶揄される事があったから、全く表に漏れていなかったわけではないのだろう。
だが、前王の例、半身たる景麒への気遣い、一応安定したとはいえ一枚岩とは決して言えぬ朝の様子が、陽子の心に歯止めをかけていた。
そして何よりも、浩瀚が自分に対して個人的な感情を抱くとは、到底考えられなかったのだ。
政務における関係は良好だったし、日々の仕事の合間にふと交わす雑談が弾む事もあった。
だが、それはあくまで『王と冢宰』ののりを越えるものではなかった。
浩瀚が陽子を『王』としてのみ扱う事はなかったが、それでも、有能かつ怜悧な頭脳を持つこの男が、『王』という肩書きを剥がしたただの小娘の自分に興味を持つはずはないと思っていたのだ。

――そう、あの夏の夜までは。

***


「花火があるの?今晩、堯天で?」

目を見張って問い返した陽子に、話題を提供した浩瀚は、ええ、とうべなった。

「大店の商人達の主催者と聞き及んでおりますが……ご存知ありませんでしたか」
「全然知らない」

どういう事だと、陽子は隣に立つ半身――瑛州侯でもある神獣を睨み上げた。

赤楽の暦が百に届こうかという頃。
午後から景麒と浩瀚を積翠台に呼び寄せて、明朝に諮る秋からの一大港湾事業についての最終的な打ち合わせを行っていた時だった。
話に区切りがつき、茶を淹れて一服していたところで、ふと思いついた様子で浩瀚が言ったのだ。
『主上は、今宵の花火を堯天したでご覧になるのですか』と。
主の鋭い視線を浴びた景麒は、僅かに眉根を寄せて答えた。

「手続きに則り申請がありましたので、安全面等、諸々審議の上、問題なしと判断して許可いたしました。州師も増員して配備しております」
「そうじゃなくて、堯天で花火があるって何故教えてくれなかったんだ」
「事は州府に属すべき采配でございます。主上のご許可を得るべき事案では……」
「だから、そういうことではなく!」
「恐れながら」

この朴念仁が、と陽子が叫ぶ寸前に、浩瀚の声がさらりと割って入った。

「主上、台輔におかれましては悪気があったわけではございますまい。どうぞご勘気はそこまでに。台輔、主上は堯天で花火が上がるとご存知であったなら、間近でご覧になりたかったのかと」

浩瀚の説明に、景麒が目を瞬いた。
鳩が豆鉄砲を食らったようなその表情を前に、陽子は肩を落とした。
景麒に悪気がないなんて事は、はなから分かっている。
だが、そろそろ百年にならんとする相棒の変わらぬ鈍さには脱力せずにはおられなかった。

「――景麒」
「……は」
「ま、そういう事だ。次に機会があったら教えてくれ。今更お前も、『王たるものが祭りに混ざりに行くなど』なんて理由で反対はしないだろ?」
「……はい」
「では、今宵は花火見物をなさらないのですか?」

浩瀚の問いに陽子は肩を竦めた。

「事前に予定して時間の調整をしていたならともかく、この状況では堯天に下りても間に合わないだろう。明日の大事の前だしな。今回は諦める」

すぱっと言い切り、椀に残った茶を飲み干すと、陽子は、「さあ、再開しよう」と、二人を促して立ち上がった。

陽子の思ったとおり、諸々の打ち合わせや細かな調整等が終わった時には、既に雲海の端から月が昇り始めていた。

「あー、これで何とか明日は上手くいきそうだな」
「主上、この後少しお時間はございますでしょうか?」

ほっとして、二の腕まで見えるのも気にせず大きな伸びをしていた陽子は、浩瀚の問いに「へっ?」と間抜けな声を上げた。

「今日はもう正寝に下がるだけだけど……まだ何かあるのか?」

既に景麒は退出していた。
麒麟の耳に入れられぬ密談かとさっと表情を改めた陽子に、浩瀚は微苦笑を浮べて首を振った。

「いえ。ただ、もしよろしければ少しお付き合いいただきたい場所がございまして」
「いいけど、どこへ?」

首を傾げて尋ねたが、浩瀚は珍しくはっきりとは答えなかった。
そのまま、呼び寄せた冢宰府の下官に書類を託すと、代わりに灯明を受け取り、陽子を導いて積翠台を出た。

連れて行かれたのは、正殿の一角、特に雲海に張り出した露台の一つだった。
到着する前から、陽子は浩瀚の目的を察していた。
馴染みのある音が聞こえてきたせいだった。

――ドォォン……!

間近で聞けば、地鳴りのような大音響だったろう。
だがそれも、雲海を挟むと遠いこだまのようにしか聞こえない。

浩瀚が灯明を消した。
その途端、月光に照らされた雲海の中で光が散った。
気泡が浮かんで広がるように、鮮やかな光の花が広がった。

「うわぁ、花火って、上から見るとこんな風なんだ」
「雲海を透かして見る花火を、『光海月ひかりくらげ』などと申す事もございます」
「分かるな、その例え」

海面に咲く花を嬉しそうに見つめていた陽子は、その笑顔のまま浩瀚を振り返った。

「ありがとう、浩瀚」
「花火が上がる方角と、そちらを見渡せるこの露台をたまたま知っていただけでございます。礼を仰っていただくほどの事では」
「それもだけど、さっき、私が今夜の事を知らないって分かってて、わざと景麒の前で話題を出しただろう?」

浩瀚は口の端を上げた。

「お気付きでございましたか」
「後で私が知れば、もっと話がこじれると思った?」
「主上と台輔の絆を疑ったわけではございませんが、老婆心にて少々出過ぎた真似をいたしました」
「いや、『行けなかった』っていうのと『行かない』って自分で決めるのでは気分が違う。確かに後から知ったらもっと怒っていたかも。せっかく工事の話が纏まっても、それでまた下らない喧嘩をして、お互い気分を悪くしていたかもしれないなって思う。だからありがとうと言ったんだ」

思いがけず浩瀚と一緒に花火を観れた、その感謝も含んでいる事は口に出さなかった。
浩瀚はつと目を細め、月光に照らされた陽子の笑顔を眩しそうに見つめた。

「勿体ないお言葉です」

その声にかぶせるように、立て続けに大きな花火が上がった。
水面に次々に咲く光の花に、陽子は吸い込まれるように魅入った。
こんなに大きな花火を観るのは、常世に来て初めてだった。
そこには、陽子が望んだ慶の復興と安定が確かに表れていた。

――ようやく、ここまで来た。

胸にこみ上げてきた熱に煽られたように、陽子は再び背後を振り返った。

「なぁ、浩瀚はこんなに大きな花火を観たこと……」

あるか、と問おうとした言葉が途切れた。

浩瀚は花火を見ていなかった。
陽子が不意に振り返るその前から、浩瀚の視線は彼女の後姿にのみ注がれていた。

翡翠と琥珀の瞳が、何かを探るように、伝えるように交じり合った。
もとより色事に対する陽子の勘は鈍かったが、それでも玉座での百年近くの歳月は、彼女に人心を推し量る力を養わせていた。
それは、滅多に本心を露わにしない浩瀚に対しても――多少は――当てはまるものだった。

自分が『浩瀚』という人物そのものに惹かれているように、浩瀚もまた、自分の事を王としてのみ見ているわけではないのかもしれない――陽子がそう気付いたのは、この瞬間だった。

その後も二人の関係が劇的に変化することはなかった。
政務の間の他愛ない会話がほんの少し増えはしたが、ただそれだけだった。
しかし、その夜以来、小さくではあるが淡い希望と予感が確かに陽子の中に宿ったのだった。

***


いつしか陽子は立ち止まり、素足を砂と波に洗わせたまま、雲海の彼方に着水しようとしている夕日を見つめていた。
視界の隅に人影が映る。
腹の底に沈んだ緊張感を逃がすようにゆっくりと息を吐き、陽子は近付いてくる待ち人を振り返った。
あの時の予感が、今、現実になろうとしていた。

「お待たせしまして、申し訳ございません」

踏めば崩れる柔らな砂浜を、裾の長い官服で危なげなく歩いてきた浩瀚は、陽子の三歩手前で足を止めた。
膝を付き、跪礼しようとするのを手を振って留める。

「いや、私がわざと早く来たんだ。少し、雲海を眺めたくて」

立礼に切り替えた浩瀚は、顔を上げると陽子の視線を辿って夕日を見やった。
薄紅に染まった空と柔らかく光を反射する水面に、琥珀の瞳を眩しそうに細める。

「普段この時間に雲海を見ることはあまりございませんが、綺麗なものですね」
「……いつだったか、こんなふうにお前と一緒に雲海を見たことがあったな」
「花火の時でございますね」

いささか唐突でぎこちない陽子の話題転換に、浩瀚は即答した。

「もっとも、あれは月が昇った後でしたし、お連れしたのは露台でしたから、主上のおみ足はさように濡れてはおられなかったはずですが」

その軽妙さを含んだ物言いにふっと緊張が解け、陽子は微笑んだ。

「……覚えていたんだ」
「無論でございます」

深呼吸をして、陽子は改めて男へと向き直った。

「浩瀚」
「はい」

真っすぐな視線を寄越す男を同じように見返し、陽子は言った。

「再来年の五百年を期に、お前の冢宰職を解こうと思う」

忘れていた波の音が、耳の中で大きく唸った。

解職を告げられた男は全く動揺しなかった。
まるで陽子がそう言い出すのが分かっていたかのように。
静かに言葉の続きを待つ浩瀚を見上げ、陽子は一歩踏み出した。

「お前が目をかけている後継候補も逞しく育ってきた。時は満ちたと思うが、どうだ?」
「御意」

あっさり頷いた相手を前に、陽子は不安と緊張に躍る心臓を宥めようと唇を湿した。
ここまではいい。
肝心なのは、この先の提案に彼が頷いてくれるかだ。

「それで……だな、浩瀚。冢宰を辞したら……」
「主上」

躊躇いながら押し出した声を遮られ、知らず落ちていた視線を上げる。
今度は浩瀚が一歩、陽子の方へと踏み出した。

「続きは、どうか私から申し上げさせて下さい」

初めてだった。
言葉を遮られるのも、互いの体が触れ合いそうな距離も、頭一つ高い浩瀚に包まれるように見下ろされるのも。
それは『王』と『冢宰』の間ではありえない事だった。

見上げてくる陽子に微笑むと、浩瀚はその場に膝を折った。
跪礼かと思ったが、違った。
片膝だけついて陽子を見上げるその姿に、遠い昔、蓬莱で見た洋画の一場面を思い出す。
浩瀚の袖が動き、陽子の手をそっと掬い上げた。
琥珀の瞳が、ひたと陽子を見上げる。

「主上、私はあなたを――」

雲海の波音に紛れた言葉は、それでもしっかりと陽子の耳に届いた。

「……の」
「の?」
「この気障男め」

目頭が熱くなったと思った次の瞬間、陽子の頬は溢れ出した涙で濡れていた。
緊張が解けた安堵か、望みが叶った喜びか、涙は後から後から流れ出し、止まることがなかった。
その様子を、浩瀚は穏やかに目を細めて見守っていた。

やがて。

「主上。お返事をいただいても?」

静かに促され、陽子は目を見張った。
そして、未だ止まらぬ涙を拭きながら、今度は笑い出した。
答えなどあまりに自明過ぎて、とっくに伝えた気になっていたのだ。

陽子は半歩、浩瀚の方へと踏み出した。
蓬莱風の求愛には、蓬莱風の返答を。
膝と膝が交わりそうな位置に立ち、陽子は浩瀚の白い額の上に屈み込んだ。


潮騒の音が響く中、柔らかな接吻と共に囁かれた言葉に、浩瀚は嬉しそうに微笑んだ。


(甘い誓いと共に)


                                                                         <終>


                                                                    2015.07.19

早くから恋仲に持ち込んでしまう閣下も好きですが、ずっとおあずけ状態なのも実は好きです(笑)。

リクエスト第1弾は、フィギュアスケートがお好きだという霧香様より頂いたお題で、『接吻と号泣』。
滑り終わった選手がコーチ達と判定結果を待つあのドラマチックな場所を、『Kiss and Cry』というそうです。
これを直訳すると、『接吻と号泣』……うわぁ、さらにむわっと妄想の香りが(笑)。

ちなみに、閣下のあのポーズは、以前、競技の後で『氷上プロポーズ』をしたペアがいたなぁと思い出したところから。
陽子さんの号泣具合が若干足りないのは、こそっと見逃して下さい(汗)。

リク主の霧香様のみ、ご希望であればお持ち帰りをどうぞ。

この度は素敵なリクエストをいただき、どうもありがとうございました!

  

 

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