桜花の佳人
「美しい女人だな」
「わっ!」
突然背後から声をかけられ、
慌てて振り返り、そこに同期の顔を見つけてほっと息を吐く。
「何だ、
「何だとはまたご挨拶だな」
答えながら、瑞惺は友人が卓に広げた書簡の下に隠そうとしている半紙を素早く取り上げた。
「真面目なお前が、珍しく仕事中に想い人の姿絵にでも見入っているのかと思いきや……こりゃまた随分古い絵だな」
端が黄ばんだ紙に描かれていたのは、桜と思しき木にもたれた少女だった。
墨がぼやけて全体にはっきりしないものの、桜花の散る中、憂いを含んだ表情で俯く少女は風情があり、触れれば消えそうな儚さがあった。
「見入ってなんかいないし、想い人でもない」
ぶすりと返し、惇敬は瑞惺の手から半紙を素早く、だが慎重に取り返した。
「過去の判例を調べるために書庫から資料を借りてきたら、そこに挟まっていたんだ。多分、誰かが私物を挟んだまま取り忘れたんだろうな」
「へぇー、あんなに管理の厳重な書庫でもそんなことがあるんだな。いつ頃のものなんだ?見たところかなりの年代物だが」
「入っていたのは赤楽王朝時代の資料だ。資料の紙も同様の古び方をしているから、同じ頃に描かれたものだろう」
「仕事の合間に恋人の姿絵を眺めていて、つい資料に挟んだまま忘れてしまいましたって?だとしたらそいつはかなり間抜けな秋官だな」
呆れた口調で言い捨てた瑞惺に対し、惇敬は絵を見つめながら「そうだろうか」と呟いた。
「違うっていうのか?」
「経過の方じゃなく、この女人の正体の事がな……。もしかしたら恋人じゃなく、いや、恋人だったのかもしれないけれど、ただの恋人じゃなかったのかもしれない」
「はあ?まだろっこしい言い方だな。どういう意味だ?」
「この人……『暁の女王』じゃないだろうか」
「『暁の女王』だと?」
遥か昔、短命の女王が続き荒廃した慶国を見事に立て直し、赤楽という大王朝を築いた伝説の胎果の女王。
達王と並び、慶の歴史を語る上で必ず名の上がるかの王は、市井では特に
「待て待て、惇敬。暁の女王といえば、王朝初期の反乱で自ら軍に混じって三百斤もの大槍を振り回して敵を打ち破ったとか、多数の刺客に寝込みを襲われて、全裸で返り討ちにしたとか伝えられている女傑だぞ?こんななよやかな女人であるわけないだろう」
「瑞惺、お主、案外
「そりゃそうだが……」
「桜をこよなく愛しておられたことも有名だしな。それと、ここを見てくれ」
惇敬が指し示したのは、少女の手首で揺れている珠だった。
色褪せてはいるが、紐の赤と珠の碧色がわずかに見て取れる。
「年頃の娘が付けるには変わった装身具だよな……って、おい、ちょっと待て。もしかしてこれ……」
信じられないといった表情で振り返った友人に、惇敬は考えぶかげに頷いた。
「ああ。碧双珠じゃないかな」
同じく慶の宝重である水禺刀に付けられている事が多い碧双珠だが、単独で装身具のように扱われる事もある。
現在の景王は男王だが、遠方への視察の折などに帯玉のように身に付けているのを惇敬は見たことがあった。
瑞惺もそれを覚えていたに違いない。
「この女人が、暁の女王なぁ……」
唸るように呟いて、瑞惺は姿絵を凝視した。
「そうだとしたら、巷に流れる逸話と違って、随分可憐な女王様だった事になるな」
「それこそ、懸想する官が
「そんな官の一人が、描いたか描かせた絵だってか?」
「かもしれないと思っただけだ。あるいは本当に女王と心を通じ合っていたのかもしれないけど……どのみち忍ぶ恋だった気がする」
――そうかもしれない。
瑞惺は友人の説に頷いた。
絵に滲むそこはかとない悲哀が、あまり幸せな恋を想像させなかった。
「……で、惇敬。この絵はどうするつもりだ?」
つい見入ってしまった姿絵から目を上げ、瑞惺は自分以上に熱心に見入っている友人に尋ねた。
「……元通り資料に挟んでおくさ。またいずれ、我々の遠い後輩が偶然見つけて色々想像を巡らせるかもしれない。それも乙というものだろ?」
「いいのか?本当はこっそり持って帰りたいと顔に書いてあるぞ?」
瑞惺がからかうと、途端に惇敬の頬に朱が差した。
「ば、馬鹿言うなっ!」
「そんなに好みの女人だったのか?」
「違う!」
「せめて生きている相手なら、叶う機会もあったかもしれんのになぁ。哀れ、惇敬の恋は一瞬で破れたり。よーし、今日は久々に堯天に飲みに下りるか!」
「行かん!」
強引な友人に無理矢理肩を抱かれて引きずって行かれそうになりながら、惇敬は慌てて半紙を元の資料に挟み込んだのだった。
■真相……かもしれない小話■
『桜色の衣かぁ…。正直私には似合わない色だと思っていたよ』
『私の衣合わせの腕を甘く見ないで頂戴。とってもよく似合っていてよ』
宮中一趣味が良いと定評のある女史に太鼓判を押され、たおやかな襦裙姿で桜の下に立ったかの君は、照れたように微笑まれた。
普段の凛々しい女王はそこにはなく、ただ可憐な少女がいるばかりだった。
金波宮の恒例行事、桜花の宴が始まる直前の出来事だった。
たまたまその場に居合わせた
そしてこの可憐な少女王の姿をいつか描いてみたいと強く思ったのだった……。
***
「何を描いているの?」
突然耳元で囁かれ、文林はびくりと肩を震わせた。
「せ、
「だって、文林ったら何度声をかけても気付かないんだもの」
桃色の頬をぷっと膨らませて言い返したのは、同じ秋官ではあるが他部署で働いている雪蘭だった。
今朝、登庁の途中で咲きかけの桜の木を見つけた途端、文林は数年前、宴の前に見かけた主上を思い出した。
これだ、と思った。
午前中の仕事をもどかしい思いでこなし、
後は、ただ夢中で描いた。
「ねぇ、もしかしてそれ、次の予定の……?」
きらきらと目を輝かせる友人に、文林は頷いた。
「内容はほぼ固まったんだけど、ずっと表紙が決まらなくて。でも、今朝急に思い付いたの」
「ちゃんと見せて」
「まだ下描きよ」
「構わないわ。お願い!」
二十代後半で昇仙したのに、時には十代にも見える愛らしい雰囲気の雪蘭に懇願されると、どうも弱い。
文林は、仕方なく半紙を友人に渡した。
受け取った雪蘭は「まぁ……」と感嘆の声を洩らしたものの、絵を見つめる顔は次第に曇っていった。
「……どうかしら?」
友人の表情の変化に戸惑いつつ文林が尋ねると、雪蘭は「素敵だと思うわ」と呟くように言った。
「桜の木と主上……。儚げな主上が趣あってとても素敵。素敵だけど……」
雪蘭は顔を上げると、がっしと友人の腕を握った。
「文林!私達この五十年、『主上は断然
「雪蘭……」
涙目の友人に、文林は苦笑して首を振った。
「まさか、そんなはずないじゃない。主上は攻め。私の本の中でそれが揺らぐ事はないわ」
きっぱりと言い切った文林に、雪蘭は愁眉を開いた。
「じゃあ……」
「この絵の主上がいつになく受け的なのは訳があるのよ。今度の本はね、主上が情けをかけていらした地官が、土砂崩れで不慮に命を落とすところから始まるの」
「まあ……」
「それで主上は、彼が好んだ桜の衣を着て秘かに鎮魂をなさるの。けどその嘆きはとても深くて、ご友人であり彼の上司でもあった半獣の官吏がお慰めするんだけれど、そのうちお二人は一線を越えそうになられるのよ」
「それってもしかして、近年巧からお越しになったあの方が
「ふふっ、少しね。……でも最後には、理性を取り戻した主上が何とか思い留まられるの。その後、台輔も主上をお慰めしようとなさるんだけど、行き違いから逆に怒らせてしまって、『私を慰めたいというなら、お前が慰めろ』と迫られるのよ」
「きゃー!それでそれで!?」
主上×台輔
「色々あって、後日主上も反省なさるんだけど、寂しい気持ちは治まらなくて。そこに以前から主上に懸想なさっていた冢宰閣下が誘いをかけられるの」
「ええ、ええ、それで!?」
「誇り高い閣下のあからさま過ぎる求愛に、主上は哀れと嗜虐心を煽られて情けをかけようとなさるんだけれど、すんでのところで禁軍左将軍に止められるのよ。『もっと御身を大事になさいませ』って。で、その勢いで主上は将軍と結ばれてしまうの」
「きゃああ!じゃ、左将軍も主上を想っておられたのね?」
「と思わせて、実は左将軍の真実の想い人は、冢宰閣下の方だったの」
「まあ!」
「けど、その一夜があってから主上にも惹かれてしまって、閣下の主上への想いにも挟まれて、左将軍は深く懊悩するの。さらに、例の地官の不幸が実は事故ではなく仕組まれたものかもしれないという疑惑が出てきて……といった流れなんだけど、どうかしら?」
「素敵!素敵よ、文林!」
頬を紅潮させて、雪蘭は拍手した。
「さすが、主上攻めの牙城・文林だわ!本が出るのが待ち遠しいわ!」
「でもね、後半に主上が剣を振るう場面があるんだけれど、描写がいまいちおぼつかなくて困っているのよね……」
ため息をついた友人に、雪蘭は身を乗り出した。
「忘れていたわ!そもそもあなたの所に来たのは、この午休みに主上が禁軍左将軍と“すとれす発散”をなさるらしいって聞いたからなのよ。一緒に見に行かない?」
「本当に!?もちろん行くわ!」
勢いよく立ち上がった文林に、雪蘭は微笑んだ。
「すご
「ええ!主上の凛々しいお姿を拝見すれば、良いものが書ける気がするわ」
描きかけの下絵を書類の間に挟むと、文林は「早く早く!」と手招きする雪蘭を追って、小走りに堂室の出口に向かったのだった。
<終>
2015.05.30