道のあかし



澄んだ夜空に、碧く輝く満月が昇ろうとしていた。
朝晩の冷え込みを肌に感じるようになって久しい。
久方ぶりに仕事が早く片付き、宵の初めに官邸の門をくぐった浩瀚は、邸ごと包み込むような金木犀の香りと、露台に供された秋の実りに出迎えられた。

「……そうか。今日は…」

呟いた言葉に家人が頷く。

「はい。秋の名月でございます」
「もうそんな時期か」

日々の忙しさにかまけ、すっかり忘れていた。

家公だんな様。御酒ごしゅを用意いたしましょうか?」
「ああ。……いや、やはりいい」

頷きかけ、だがすぐに思い直した。
脳裏をよぎる、微かな予感があった。

「今日は酒はなしで、ゆっくり寛ぐとしよう」

***


家人を早目に下がらせ、自室で趣味の読書に耽溺していると、わずかに開けておいた窓が小さく軋む音がした。

「戸締りがなっていないぞ。無用心だな、冢宰」

悪戯っぽい少女の声に、浩瀚は顔を上げ微笑した。

「刺客が横行していた開朝当初ならいざ知らず……昨今では、冢宰の邸の奥深くにあるその窓から侵入しようとなさるのは、主上くらいしかおられません」

言いながら、窓枠を乗り越えようとする少女を助ける。

「もしかして、私が来るの分かってた?」

腕の中におさまった少女が見上げてくるのに、

「半ば、願望でしたが」

そう告げると、緋色の女王は笑って肩を竦めた。

「相変わらず勘が鋭い」

そうして背後を振り返ると、ここまで運んでくれた使令に手を振る。

「ありがとう、班渠」

心得た使令が、闇に溶けるように消えた。

「まだ仕事していたのか?」

浩瀚が向かっていた書卓にちらりと目を向けて、陽子が尋ねる。

「いえ。趣味の本を少々読んでおりました」
「あ……お邪魔しちゃったかな」

怯んだ表情を見せる少女に、浩瀚は優しく笑ってその頬に手を添えた。

「貴女にお会いする以上に私にとって嬉しい事などございません」

陽子は安心したように微笑んで、浩瀚の暖かい手に頬を擦りつけた。

「……久しぶりに浩瀚の仕事が早く片付いたと聞いて、矢も盾もたまらず来てしまった」

そう言って、少女は懐から取り出したものを掲げた。

「実は、美味しいお酒が手に入ったんだ。月を愛でながら、一緒に飲もうと思って」

凶悪なまでに愛らしい笑顔でのたまった主に、浩瀚も一層深く笑んだ。

「喜んでお相伴に預かります」

***


酒器を用意して、先に主を通した露台に向かうと、少女は床几に腰かけ、月明かりに照らされた院子を眺めていた。

「ここは金木犀の香りがとても強いね」
「ええ。近くに二本植えてあります。昔、この香りを好んだ冢宰がいたようですね」
「これではこっちが霞んでしまうかな」

陽子は持ってきた瓢の栓を抜くと、浩瀚に差し出した。
その口に顔を近づけると、甘い濃密な芳香に包まれた。

「桂花陳酒ですね」
「そう。香りはそのままで辛口のものを開発したからって、送って下さったんだ」
「……どちらからか、お伺いしても?」
「慶よりも早く金木犀が咲く国からだ」
「雁ですね」
「当たり」

少女が華やかな笑い声を上げる。

「六太君がね、『酒にだけはうるさいうちのバカ殿のお墨付きだから、旨いぞ』って」

隣国の台輔らしい言葉に、浩瀚は苦笑した。

「ですが、主上は甘口の御酒ごしゅの方がお好みではございませんでしたか?」
「うん。だからそれは浩瀚の。私のはこっち」

そう言うと、陽子は懐からもう一つ瓢を取り出した。

「一緒に普通の桂花陳酒も送って下さったんだ。……お二人とも、私が誰と飲むのかお見通しらしい」

少し照れたように告げる少女の様子が愛らしい。
陽子と違い、浩瀚自身は辛党だ。
桂花陳酒も、一人で飲むときに選ぶことはまずない。
隣国の高貴な二人は、そうした浩瀚の好みをも知悉しているようだった。
なぜなのか気になるところだが、今はそれを深く考える気にはならなかった。

目の前には何よりも大切な少女と、酒。
無粋な考えは不要だった。

では、と、浩瀚は瓢に手を伸ばした。

「せっかくのお二人のお心遣い、有り難く頂くといたしましょう」

***


とぷり。

小さな音を立てて、酒が流れ落ちる。
月明かりの中、透明な波璃の酒器が徐々に黄金色へと染まっていく。
小卓に肘を付きそれを眺めていた少女は、ほうっと溜息をついた。

「……綺麗な色だな」
「はい。金木犀を浸け込んでこの色を出すまで、少なくとも三年はかかると聞きます」
「へぇ……」

水で割り陽子に勧めると、浩瀚はもう一つの瓢を取り上げた。

「浩瀚のは、少し色が薄いな」
「そうですね」

こちらは申し訳程度の水を注ぎ、軽く混ぜる。

「……水が少なすぎないか?」
「主上のものと、色を合わせたいと思いまして」

――このザルめ。

陽子は、綺麗な笑顔を向けてくる男に思わず言いかけて、止めた。

「……まあいいや。じゃあ蓬莱式に乾杯しよう」
「はい」

カツン、と、二つの杯が高い音を立てて鳴った。

「どう?」

優雅な仕草で杯を傾ける男の様子を見守って、陽子は問うた。

「美味しいですね」

香りはそのままに、甘みだけが削ぎ落とされた酒は、すっきりとして美味しかった。

「さすが、延王がご推薦なさるだけありますね。大層な銘酒かと」
「どれ」

浩瀚の杯に手を伸ばした陽子は、一口飲んで眉を寄せた。

「……辛い」
「主上には少々お早いかもしれませんね」
「っていうかこれ、ほぼ原酒なんだけど」
「いえ、れっきとした水割りですよ?主上もご覧になっておられましたでしょう?」

しれっと告げる男に、陽子は呆れて今度こそ呟いた。

「……このうわばみが」
「お褒めの言葉と受け取っておきます」
「全然褒めていないぞ」
「そうですか?」

涼しい顔を崩さない男に苦笑して、陽子は椅子に深く腰かけ直した。
戯言めいた言葉の応酬。
政務を離れ、浩瀚と過ごすこうした何気ない一時が、陽子はとても好きだった。

「……こちらと蓬莱は所々似た風習があって、面白いな」

酒のもたらす心地良い熱に身を任せながら、陽子は露台の一角に供えられた様々な秋の味覚にふと目を留めて口を開いた。

「いや、日本の諸々の風習は中国から伝わったんだから、むしろ崑崙とこちらが似ているのかな……」

首を傾げて呟く少女の頬は、微かに上気している。
目を細めてその様子を眺めながら、浩瀚は静かに問うた。

「蓬莱でも観月の風習があるのですか?」
「うん。やはりこうした秋の満月の日に、お供えをするんだ。お団子とかが多いんだけど。神に豊穣を感謝するため……だったかな」
「確かに似ておりますね。こちらでも同じです。豊穣の感謝を、天帝と、そして王に捧げるのです」
「王に?」
「はい。民にとっては、妖魔を退け天害を押えて下さる王の存在は、正に豊穣の守り神ですから」
「……なんかとっても偉い他人の話を聞いているような気がするな」

居心地悪そうに身じろぐ少女に、浩瀚は思わず笑んだ。
こうした飾らない部分は、登極当初と全く変わっておられないと思う。
供台に目を向け、浩瀚はゆっくりと続けた。

「……今宵、慶のあちこちで、貴女を慕う民の手によって、同じような供物が捧げられていることでしょう」

つられたように、少女の視線も供台に向く。

「これが貴方の歩んでこられた道のあかしです。そしてこれから歩む道のしるしでもあります」

低い声で告げられる言葉は陽子の心に響き、静かに染み渡っていった。

「……うん」

飲み干した酒器を小卓に置き、陽子は立ち上がった。
形良く盛られた供物に近づき、じっと眺める。
そこに在る、目に見えないものを確かめるように。

「……だが、まだ私の目指す終着点は遠い」

呟いて少女が振り返る。
月光の影に隠された少女の表情は伺い知れない。
ただ、宝石のように光る翡翠の瞳だけが、真っ直ぐに浩瀚に向けられた。

「辿り着くまで……共に来てくれるか」

視線を微笑で受け止めて、浩瀚は少女に近寄り、紅蓮の髪の一房をすくい上げた。

「はい。この命の、尽きるまで」

髪に落とされた口付けと、誓言。

陽子は艶やかに笑うと、浩瀚の首に腕を回した。

「……金木犀の香りに酔ってしまったようだ」

控えめな誘いに、浩瀚は嬉しそうに笑んでその小柄な体を抱きしめた。

「では、香りの届かない房室にお連れいたしましょう」

露台を出ながら、腕の中の少女に微笑む。

「来年の名月には共に堯天に降りましょう。まだ主上のご存じない催しが多々ございますので」
「本当?嬉しい!」

ぱっと顔を輝かせる少女に、浩瀚は優しく口付けた。

きっと来年は今年より供台の数が増えるだろう。
再来年は更に。

それは緋色の女王の切り拓いてきた道のあかし


――そうしてこの国は進んでいく。




                                                                          <終>

                                                                     2007.09.05

 

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