『時雨庵』のあおくない葵様宅で開催された『色祭り』への提出品。
使用色『紅色』。
紅
「ご認可いただきたい書類はこちらで最後です」
「分かった」
浩瀚から差し出された書類を一読した陽子の手は、御璽に伸ばす前に一瞬だけ止まった。
だが、次の瞬間には、それを持ち上げ、指定の場所に押した。
今まで幾度となくそうしてきたように、乱れなく、正確に――
返された書類を確認して誤りがないことを確認すると、浩瀚はそれをまとめて一揖した。
「かような夜更けまでお疲れ様でございました――このまま、正寝にお戻りになられますか?」
陽子は首を振った。
「いや、少し頭を冷やしたい。浩瀚、先に下がってくれ」
は、という短い返答と衣擦れの音を背後に聞きながら、陽子は立ち上がって波璃窓へと歩み寄った。
窓の向こう、月もない夜更けの庭院は静まり返っていた。
己の姿だけがぼんやりと波璃窓に揺らいでいる。
張り出しに腰掛けそれを眺めていると、再び浩瀚の入室を請う声が聞こえた。
「――どうした。まだ何か残っていたか」
波璃窓の中に映った男に問うと、いえ、と答えが返った。
「ただ、何をご覧になっておられるのだろう、と」
「――書類は?」
「処理して参りました」
「相変わらず早いな」
短く笑うと、別に何ということはないよと告げた。
「ただ、錆びた血のような色だと思っていただけだ」
「――御髪のことですか?」
「ああ」
陽子は指に絡めていた髪を払った。
「よく夕焼け色だの太陽のようだのと言われるが、私には血の色に思える」
それが、多分に今の心情によるものだとは理解していた。
陽子が玉座に就いてから、既に100年と少しの年月が経過していた。
初期の頃に比べると、国は格段に安定し、民の生活も徐々にだが確実に潤ってきていた。
だが一方で、この100年は次々に起こる謀反や反乱、陰謀との戦いでもあった。
さすがに王朝初期ほど大がかりでも頻繁でもないにしろ、騒乱の芽は尽きることがなかった。
そうして今日も一つ、未遂に終わった王暗殺事件の処理をしたのだった。
「以前、延王に言われたことがある。『しょせん玉座は血であがなうものだ』と。確かにその通りだな」
そこに座る自分が血に染まるのは、当然と言えば当然の事だ――そこまで考えたとき、それが愚痴以外の何物でもないと気付き、陽子は舌打ちをしそうになった。
「つまらない事を言った。忘れてくれ」
それには答えず、浩瀚は陽子のすぐ後ろにまで歩み寄ると、恭しく紅髪を掬い上げた。
「確かに、血の色でもあるのでしょう」
掬い上げた髪にそっと口づけ、浩瀚は続けた。
「体内を巡る血潮の色、生の息吹そのものの色……今までも、これからも、慶を活気づける主上にふさわしい色です」
「やめろ。慰めてほしい訳じゃない」
「存じております」
荒々しく切り捨てる陽子の態度を意に介さず、髪に唇を付けたまま、浩瀚は波璃窓の中の彼女を見つめた。
「お慰めしている訳ではございません。ただ、お心弱りの主上に、付け込もうとしているだけです」
僅かに笑んだ琥珀色の瞳が、陽子を絡めとろうとしていた。
悪いのは、あなたを唆す自分なのだ――陽子が他者の温もりを欲する理由をわざわざ用意して腕を広げる男は、果たして優しいのか、計算高いのか――。
だが、今の自分にとって、その男の腕の中がこの世のどこより心休まる場所であろうことは分かっていた。
明日から再び、『王』として
陽子は小さく笑って、波璃窓から男本人へと向き直ると、その首に腕を絡めた。
「慰めてほしい訳じゃないぞ」
「存じております」
念を押す少女に、浩瀚も繰り返した。
「罰をお望みなら、そのように」
「――馬鹿」
波璃窓に映る紅の髪を、紫紺の袖がゆっくりと覆い隠した。
<終>
2017.11.18