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蓮の花 渡るそよ風
重さに耐えかねるように、緋色の頭がこくりこくりと揺れている。
それに気付いた尚隆は、口を噤み、面白そうに見守った……。
***
慶国は金波宮の奥、内殿からいくつかの隧道を抜けた奥にある
池に突き出すようにして建てられたその周りでは、今、蓮の花が盛りを迎えていた。
池を覆い尽すように立ち上がった、薄桃色の花と緑の大きな葉。
いつもと同様、ろくな事前連絡もなしに金波宮を訪れた――本人の申告によると、『遊びに来た』――延王・尚隆は、案内された四阿を前に、ほう、と感嘆の声を上げた。
「見事な蓮池だ。まるで極楽浄土のようだな」
『極楽浄土』……蓬莱生まれにしか分からぬその言い回しに、案内をした陽子はくすりと笑った。
「極楽浄土をご覧になったことが?」
「いや。こちらに連れて来られた時は、入口近くまで行ったと思っていたのだがな。後で六太に言われた。『お前が足を入れかけていたのは、地獄の方だ』と。確かにその通りだ」
肩を竦めて告げた尚隆に、陽子は再び可笑しそうに笑い声を上げた後、池へと目を向けた。
「ここの蓮池は、私がようやく金波宮に慣れた頃、偶然見つけた場所なんです。ちょうどこの時期だったなぁ。見た途端、この眺めに圧倒されてしまって。私が気に入ったと洩らしたら、庭師達が慌てて池を整えようとしたんですが……この手入れされていない感じが好きだったので、止めさせたんです。あとで天官長に泣きつかれて、この四阿だけは補修しましたけど」
「そうか」
「今の時期もいいんですが、もう少し後の、花も葉も枯れ果てた景色も凄いですよ。いつかそちらも延王にお見せしたいな」
「そちらは見たいような見たくないような……」
話しながら、二人の王は池に向かって誂えられた床几に腰を下ろした。
その周りで、女御達は手際良く茶の仕度を整えると、やがて静かに四阿を下がっていった。
陽子と尚隆は蓮池を眺め、その上を気紛れに吹く風に頬をなぶらせながら、思いついては他愛無い会話を交わした。
それは尚隆の諸国漫遊の馬鹿話であったり、陽子の政における悩みであったり、それに対する尚隆のさり気ない忠告であったりした。
こうした一時が、陽子にとって何より心の休息になると、尚隆は知っていた。
同じ王として、また胎果として、陽子には尚隆にしか明かせぬ思いがある。
その事に気付いているのは、何も尚隆だけではない。
女王を心から思う周囲の人々も、また気付いていた。
それゆえ、突然訪れる延王の存在は、金波宮の中である程度受け入れられていたのだ。
「ところで陽子……」
茶器を手に、しばし広がった沈黙を破り、隣に座った女王を見やった尚隆は、目にした光景に思わず口を噤んだ。
普段強い光を放つ翡翠の瞳は、今、半ば以上が瞼に隠れ、 男から見れば折れそうな細い首が、重さに耐えかねたようにこくりこくりと揺れている。
括っただけの緋色の髪が、そのたびに背中でふわふわと波打っていた。
――随分と疲れているようだな。
登極の頃と異なり、今、彼女の周りには、女王を助け、また真面目な彼女の手綱を適度に緩めることの出来る人材が揃っている。
――それでも、気付くと根を詰めておいでなのです。
いつだったか、女史の一人がため息混じりに漏らしていたのを思い出した、その時。
ぐらりと、少女の体が大きく前に傾いた。
「……っ!」
卓に額を打ち付ける寸前、滑り込んだ尚隆の腕がそれを防ぐ。
「……ん」
「いい。そのまま寝ろ」
言いながら、陽子の体をゆっくりと自分にもたれさせる。
「すいませ……なんか、とても眠くなって……」
「ああ。少し眠るがいい」
舌足らずな言葉を遮り、開きかけた瞼をそっと手の平で覆うと、程なく年若い女王は健やかな寝息を立て始めた。
――全く。
自分に添うた緋色の頭を見下ろして、尚隆は苦笑を洩らした。
――ここまで無防備に眠られると、複雑な気分だな。
かと言って、その信頼を裏切る気にもなれず。
――こうなったら、昼寝の相伴に預かるか。
開き直ると、尚隆は傍らに少女の温もりを感じながら、目を閉じた。
***
それからどれ位経ったろうか。
何かに意識を揺すられ、尚隆はふと目を覚ました。
隣の少女を起こさぬよう細心の注意を払いながら周囲を窺い、気付く。
四阿を囲む潅木の中、こちらに向かってくる足音があった。
明らかに女御のものではない気配。
更に言えば、それは女のものでもないと、尚隆は断ずる。
人払いをされたこの場所に、女御の取り次ぎ無しに近づける人物はかなり限られている。
思い巡らせた途端浮かんだ顔に、尚隆はふと悪戯心が芽生えた。
自分に寄り添い、安らかに眠る緋色の女王。
その姿を見て、辿り着いたその男は何を思うだろう?
口の端に人の悪い笑みを刻むと、尚隆は陽子の体をそっと包み込むように手を回した。
――さて、誰だ。
近付いてきた足音の主が姿を現すのを、尚隆は待ちわびた。
……………そこに姿を現したのは?
①景麒→
②六太→
③??→
①景麒の場合
潅木の間に見え隠れする金色の光に、尚隆は自分の勘が当たったことを知った。
木々を抜け四阿に近付いてきた慶国の麒麟は、その入り口でぴたりと足を止めた。
「景麒、久しぶりだな。息災か」
少女に腕を回したまま堂々と声を掛けた尚隆に、景麒は数瞬の沈黙の後、深々とため息をついた。
「……延王君には、お変わりなく」
無表情なのにいかにも不承不承といった気持ちが伝わる景麒の挨拶に、尚隆は軽く笑うと、座れ、と身振りで示した。
「どうした。陽子に急用か」
「いえ。延王君が急にお越しと伺い、遅ればせながらご挨拶に参りました」
言葉にどことなく棘を感じるのは、気のせいではないだろう。
その事実を面白く感じながら、尚隆は口を開いた。
「近頃慶も落ち着いてきたと思っていたが……少々働かせ過ぎなのではないか」
目線で少女を指しながら問えば、向かいに腰を下ろした景麒は僅かに渋面になった。
「……私がお止めしてもお聞き入れ下さらないのですから、仕方ありません」
「ほう?何と言って止めるのだ」
「『体をいとうも王としての務め。ご自覚頂きたい』と」
景麒の答えに、尚隆は一瞬言葉を失った。
次いで、こみ上げてきた笑いに肩を震わせる。
「……延王」
少女を慮ってか、声をかみ殺して笑う隣国の王に、景麒は眉を寄せた。
「何がおかしいのですか?」
「いや……相変わらずだな。お前にそう言われた時の陽子の返事を、当ててみせようか」
笑いを収めて、尚隆はぶっきらぼうな少女の声音を真似た。
「『景麒に言われるまでもない。自分の事は自分が一番良く知っている。無理などしていないから安心しろ』……と、そんなところではないか?」
景麒が微かに目を見張った。
「どうやら当たったらしいな」
男が面白がっているのに気付き、景麒は一瞬むっと押し黙った。
が、その視線をすぐに落とす。
「私は……その、どうも言葉が足りず、主上のお気に障ることばかり申し上げてしまうようなのです」
「そのようだな。まぁ、お前に悪気が無いことは陽子とて理解していると思うがな」
「ですが、このままで良いはずはありません。ただ、どこをどう直せば良いのか、自分でも分からないのです」
――変われば変わるものだな。
膝に置いた自分の手をじっと見つめる景麒を、尚隆は新鮮な思いで眺めた。
――全く、健気なものではないか。
自国の麒麟に対して最後にそう思ったのは、果たしてどれぐらい前だったか。
六太が景麒を構うのも分かる。
これでは、いらぬ世話も焼きたくなるというものだ。
「何も難しいことはあるまい。お前の素直な気持ちを、言葉にして添えれば良いだけだろう?」
「私の気持ち……ですか?」
「そうだ。陽子が無理をして体を壊せば、自分も周囲の人々も悲しむ。だから体をいとうてくれと、そう伝えれば、陽子とて考えると思うがな」
尚隆の返答に、景麒は難しい宿題を出された
「………努力してみます」
「まあ、焦らずにゆっくりやれ。お前達にはこれからまだたくさんの時間があるのだからな」
景麒の視線がついと上がった。
まっすぐに尚隆を見た紫苑の瞳が、静かに綻ぶ。
「ありがとう存じます」
それが何に対しての礼か、尚隆は正確に理解した。
『お前達には……陽子には、これからたくさんの時間がある』
主を認めたその言葉に、景麒は礼を言ったのだ。
「しかし……」
尚隆の腕に包まれたまま、未だ目を覚まさぬ己の主を見やり、景麒はため息を付いた。
「主上がお目を覚まされたら、やはり私は一言、苦言を申し上げねば気が済みません」
「ほう?」
「このように、人の……それも男性の前で熟睡なさるなど、王として云々という以前に、女性としてどうかと」
眉根を寄せた景麒の言葉に、尚隆は堪らず笑い声を上げた。
「それに関しては、全くお前が正しい。今後の為、よく陽子に言って聞かせるのだな」
***
「先程は、本当に失礼いたしました」
夕刻。
夕餉の席に招かれた尚隆は、顔を合わせるなり恥ずかしそうに詫びた陽子に苦笑を向けた。
「景麒に何か言われたか?」
「ええ。それはもう散々に」
その時のことを思い出し、陽子はため息をついた。
四阿で起こされた後、正殿まで連れ戻され、しかめ面の景麒からため息交じりの小言を四半刻も聞かされたのだ。
要約すれば、それはもっと女性としての慎みを持っていただきたいということで。
『よりにもよって、延王君のお隣でお休みになるなど……妖魔の前に丸腰で立つに等しい行為だとお分かりか?』
白皙の額に眉を寄せ、本来慈悲の生き物だという麒麟は、隣国の王を容赦無くそう扱き下ろしたのだった。
陽子は美しく盛られた点心に箸を伸ばしながら、不満気に言った。
「確かに今回は、気を抜きすぎた私が悪かったのですが……そもそも景麒は心配し過ぎなんです」
「だがあいつの心配ももっともだぞ。男の隣で熟睡などするものではない。何をされるか分からんからな」
盃を手に年上ぶった忠告をする男に、陽子は首を傾げた。
「これが下界で、全く知らない男の隣というのなら、私もそれなりに警戒はしますけど……あなた相手にそんな必要はないでしょう?」
「どういう意味だ?」
思わず問い返した尚隆に、少女は、だって、と至極真面目に続けた。
「延王がお好きなのは、熟女でしょう?」
含んでいた酒を、尚隆は思わず噴きそうになった。
「あなたが私に変な気を起こす訳がない。私だって相手をちゃんと見ているんだ。景麒はそれが分かっていないんです」
くらり、と。
尚隆はめまいを感じた。
それは明らかに酔いとは別種のもので。
分かっていないのはお前だと言いたい。
どこで自分の好みを知ったかは、とりあえず置いておくとして。
――大概の男は、好みに関係なく目の前に据膳があれば手を出すもんなんだぞ。そもそもお前は十分俺の守備範囲内だ。先刻は、お前の信頼を裏切りたくないと思ったから留まっただけで、次に同じ状況があれば、俺とてどうするか分からんのだぞ。
「延王?」
「…………いや」
一瞬にして脳裏を駆け巡った考えを説明すべきが迷った末、尚隆は黙って盃を呷る方を選んだ。
多分、陽子には説明しても理解できない。
彼女の場合、実際に押し倒されねば、理解できないだろう。
いっそ分からせてやりたいと思わぬでもないが、尚隆としてはそれによって陽子との間で得るものより失ってしまうものの方が遥かに貴重だと思ってしまう。
苦笑を滲ませ、尚隆は満たされた盃を再度口に引き寄せた。
――食指が動かぬ訳ではないが、な。
結局自分は、この慶にとって、陽子にとって、そういう役回りなのだ。
「……陽子」
「はい」
「半身の忠告は、謙虚に受け止めるべきだぞ?」
「はい?」
箸を止め、奇異なものを見るような目を向けてきた少女に、
「国家安泰の秘訣だ」
とうそぶいて、尚隆は盃を傾けた。
②六太の場合
「……あいつか」
灌木の間を軽やかに動く金髪に、尚隆は自分の勘が外れたことを悟った。
「陽子!……っと」
四阿に駆け込んできた六太は、陽子が眠っているのに気付き、言葉を切った。
尚隆と共に慶国を訪れた彼は、最初に陽子に挨拶だけすると、景麒に会ってくると告げて、州城に出向いていたのだ。
小柄な麒麟は足音をしのばせ、そっと少女に近付いた。
「よく寝てんなぁ」
顔を覗き込んでも気付かない。
剣を遣い、気配に敏感な普段の少女からは、考えられぬことだ。
六太は、少女がもたれている自分の主を見上げた。
「陽子、どうしちゃったんだ?」
「知らん。突然ぱたんと寝てしまった」
「お前、何か変なもの飲ませたんじゃねーだろうな」
「そんなことするか。……まあ、陽子のこの性格だ。根を詰めて、疲れがたまっていたんだろうよ」
「そうか……」
六太は、尚隆とは反対側の陽子の隣に腰を下ろした。
「神籍に入れば、体は無理がきくようになるけど、心は人のまんまだからなぁ。慶も大分落ち着いたんだし、陽子ももう少し肩の力を抜く方法を覚えるといいんだけど。……そこのバカ殿までとは言わねぇが」
「何を言う。俺も国が整うまでは、がむしゃらに働いていただろう?」
「そうだったか?お前は最初っから肩の力が抜けっぱなしだった気がするけど」
その時。
「……ん」
もぞりと、少女が身じろいだ。
彼女の頭越しにぼそぼそと言い合っていた主従は、ぴたりと口を閉じた。
が、それっきり少女が動く気配はなく、六太は詰めていた息をそっと吐き出した。
「……それにしてもさぁ」
少女から尚隆に目を移し、六太はにやりと笑った。
「お前、本当、陽子に男と思われてねぇのな」
「……前から言っておるだろう。それは、陽子にまだ女としての力が足りぬからだ」
「へぇー」
「ま、そのお陰で今回は役得だったがな」
憮然とした主の表情を面白そうに見上げていた六太は、最後の言葉にあきれ、ため息をついた。
「お前ってさ。本当にいい性格してるよな」
四半刻後、両王の様子を伺いに行った鈴は、入口で足を止め、思わず口を押さえた。
池を渡り、涼やかな風が通る四阿。
五百年にわたって国を支える賢帝・延王とその半身、そして『緋の女王』として、日々信奉者を増やしつつある自国の女王は……互いに寄り添い、揃いも揃って眠りこけていたのだった。
***
「先程は、本当に失礼いたしました」
夕刻。
招かれた夕餉の席で、雁の主従は恥ずかしそうにうつむいた陽子から詫びを入れられた。
「や、俺等もぐっすり寝ちゃったし、あいこあいこ。なぁ、尚隆?」
「ああ。程よく温かくて、気持ち良く眠れたぞ」
「えっ……延王!」
顔を赤く染める少女に六太はからからと笑って、あ、うまそう、と、並べられた彼用の料理に箸を伸ばした。
「もしかして陽子、怒られた?」
「……ええ。それはもう散々に」
その時のことを思い出し、陽子はため息を付いた。
四阿で鈴に起こされ正殿に戻った後、事の次第を聞いた祥瓊からこってり絞られたのだ。
『陽子、延王君への礼儀云々の前に、あなた女の子なのよ?男の人の前で転寝しちゃうなんてどうかしてるわ。楽俊にも言われたんでしょう、もっと慎みを持てって。まったくその通りよ』
呆れと怒りを織り交ぜた女史の説教に、景王である少女はうなだれて、ごめんなさい、と、繰り返したのだった。
「なぁ、陽子。聞きたいんだけど」
「はい?」
胡桃の甘辛煮を頬張りながら、六太は行儀悪く箸先で尚隆を指した。
「陽子から見て、こいつってどんな奴?」
「延王が……ですか?」
「そっ」
昼間の話題を蒸し返そうとしているのに気づいて、盃を手にした尚隆はにやにや笑う半身を睨んだ。
「陽子。相手にせんでいいぞ」
「いいだろ、別に」
牽制し合う主従に、陽子は困ったように首を傾げた。
「どんなって……隣国の偉大な先達だと思っていますが」
「もっと具体的に言うと?」
「そうですね……胎果としてこちらの事を何も知らない状態から始めて今日まで、五百年もの治世を敷いておられる。尊敬していますし、先達としてこれ以上心強い方はいないと思っています。隣国の誼、胎果の誼とはいえ、こうして私に色々教えて下さったり手を貸して下さることにも感謝していますし」
「うん。まぁ、基本世話焼きっつーか、度量大きそうに構えてるとこあるからな」
「……おい」
六太に対し不機嫌そうに眉を潜める尚隆を照れていると解釈し、陽子は笑った。
「貫禄というのかな。何でも受け止めて下さるような気がしますね。まるで……」
「まるで?」
身を乗り出した六太に、陽子は何の疑いも無く続けた。
「歳の離れた兄か父のようだと、時々思います。――失礼な話ですが」
その瞬間、六太の目がしてやったりと輝いたのを、尚隆は見逃さなかった。
「ちっとも失礼じゃねぇって。それだけ身近な存在だってことだろ?逆に光栄だよな、尚隆!」
肩を落としてため息を付いた尚隆の背中を、六太は楽しそうに叩いた。
陽子にすれば、尚隆に対しての親近感からそう答えたのだろう。
それ自体は、悪いことでも非難すべきことでもない。
だが、言われた尚隆は、微妙な敗北感、脱力感を覚えてしまう。
「延王、すいません!やはり失礼な例えでしたよね」
尚隆の曇った表情に気付き、陽子が慌てて詫びる。
大卓の下で六太に思い切り足を蹴られ、仕方なく尚隆は重い口を開いた。
「……いや。そんなことはないぞ」
そうして、面白そうに見ている六太に小さく毒づく。
「………帰ったら、おぼえておれよ」
陽子にばれないように、尚隆は机の下の六太の足をこっそり蹴り返したのだった。
③浩瀚の場合
潅木の間に見え隠れする紫紺の衣に、尚隆は自分の勘が当たったことを知った。
木々を抜け、四阿に近付いてきた慶国の冢宰は、その入り口でつと足を止めた。
「浩瀚か。久しぶりだな。息災か」
動きを止めたのは一瞬。
少女に腕を回したまま堂々と声を掛けた尚隆に、浩瀚はさらりと衣を払って跪礼した。
「はい。延王君にもお変わりなく」
陽子の初勅に敬意を払い、尚隆も金波宮においては跪礼以上の礼は受けない。
――さすがに、これしきのことでは動揺せぬか。
顔を上げさせ微笑の奥を探るが、その感情を掴み取ることは出来なかった。
尚隆は軽く笑うと、座れ、と向かいを示した。
だが、浩瀚はそれを固辞した。
「どうした。陽子に急用か」
「はい。お寛ぎ中誠に恐れ入りますが、我が君に至急裁可を仰ぎたい案件が浮上いたしましたので、参上いたしました」
「ほう……」
――随分間合い良く、急ぎの案件とやらが出てきたな。
内心思った事は口にせず、 尚隆は己にもたれて眠る女王を労わるように見やった。
「そうか。これ程よく眠っているのを起こすのは忍びないが、仕方ないな。――が、しかし」
浩瀚に視線を移し、いささか責める口調で問う。
「ここ数年、慶も落ち着いてきたと思っていたが……昼日中に転寝してしまうとは、少々これを働かせ過ぎなのではないか?」
「それに関しては、弁解の余地がございません。拙の力不足でございます」
恐縮したように、浩瀚は面を伏せた。
「常々主上のご負担を軽くしようと努めてはおりますが……拙の申し出に、恥じらいながらも一生懸命応じて下さるお姿を拝見しておりますと、ついご無理を強いてしまいまして」
その発言を理解するのに、数瞬かかった。
「……なに?」
「主上はこの慶国にとって、かけがえのない御方。御身にお疲れを残してはならぬと、夜毎己に言い聞かせてはいるのですが……我ながら意志の弱いことに、あの宝玉のようなお目で下から見上げられますと、そのような誓いはあっけなく吹き飛んでしまいます。気づけば、夜が白んでいるのに殆どお寝かせしていない状態。こ
れではいけないと、御許へ忍んで行くのを控えようと決意しても、数日も耐えられず……まこと、己の不甲斐なさに恥じ入るばかりです」
慇懃な態度は崩さぬまま、質問の意味を故意に――尚隆は『故意』だと信じて疑わなかった――曲解してさらさらと答える目の前の男を、呆れた思いで眺めた。
――このような男だったか?
怜悧な容貌が示す通りの切れ者。
感情を御する事に長けた、冷静な男――そう思っていた。
だからこそ、他の男に寄りかかって眠る恋人を見たらどう反応するか、試してみたくなった訳だが。
まさかこんな風に……まるで子供のように臍を曲げるとは、思いもしなかった。
平静な仮面の下に見え隠れする男の珍しい態度を密かに面白がっていると、小卓を廻り近づいてきた浩瀚が、失礼します、と身を屈め、陽子へと手を伸ばした。
「……どうする気だ」
「正寝へお連れいたします」
尚隆にもたれている少女の体を、浩瀚はそっと抱きとった。
「急ぎの案件があったのではなかったか?」
「半刻程遅れたとて、国が傾くことはございますまい。多少お休み頂いた方が、後の政務も捗るというもの」
――だったら、わざわざここに呼びに来る必要などなかったろう。
しれっと答える相手に、尚隆は胸中で突っ込んだ。
「何ならここでこのまま寝かせたらどうだ?俺は一向に構わんぞ」
意地悪く告げた言葉に返ってきたのは、やはり整った微笑だった。
「延王君のお隣は、いささか危険がございますので」
「陽子にとっては、俺よりお前の方がよっぽど危険に思えるが」
「お考え違いでございましょう」
言い切って、浩瀚が立ち上がった時。
「ん……」
浩瀚の腕の中で、陽子が身じろいだ。
「主上?」
二人の男は同時に少女を見やった。
が、緋色の睫毛は小さく震えたもののそのまま開くことはなく、 ただ甘えるように、すり、と、浩瀚の衣に頬を押し付け、少女は再び寝息を立て始めた。
その瞬間の浩瀚の表情を、尚隆は見逃さなかった。
それまで身に纏っていたどこか冷たい気配は瞬時に霧散し、 今までの笑顔が全くの作りものだったと分かる蕩けそうな表情を、腕の中に向ける。
――これはまた……。
くっと、こみ上げてきた笑声を噛み殺す。
「――相当、惚れているようだな」
尚隆の言葉に、浩瀚の視線がつと上がった。
一瞬垣間見えた甘い表情は消え、そこには怜悧な表情を纏った見慣れた男の顔があった。
「思えば不思議なものだな。冷静さも分別も人並み以上に持ち合わせたお前のような男が、どうして陽子の如き小娘に惚れるのか」
色事は人智の外などと、陳腐なことは言うなよ――。 床几にもたれ、にやにやと人の悪い笑みを浮かべる隣国の王に、浩瀚は僅かに苦笑を刷いた。
「――恐れながら……人のその人たる所以は、地位でも年齢でもなく、その心にあるかと存じます」
琥珀の瞳が、再び腕の中に落ちる。
「私が惹かれて止まぬのは、このお方の、しなやかで真っ直ぐなお心でございます」
「ほう?」
尚隆は片方の眉を微かに上げた。
問いかけはしたが、正直、この男から素直に答えが返るとは思っていなかった。
「お話の端々から察するに、蓬莱において、主上はご両親の庇護の元、市井の一市民として平穏にお暮らしだったと拝察いたします」
「ああ」
「それがある日、天意によって突然全てを奪われ、虚海を渡ることを強いられ……あげく、慶というこれまで全く見たこともない国を押しつけられた。この御方にとっては、まこと理不尽な出来事だったと存じます。にもかかわらず、主上はこの国を、我らを、受け止めて下さいました。誰にでも出来ることではないと存じま
す。そして今、王として多難な道を、迷い、悩み、傷つきながらもしっかり歩んでおられます。その強く真っ直ぐなお心が、私には非常に眩しく、また……愛お
しいのです」
淡々とした語りに込められた真摯な気持ちが、伝わってくる。
「恐れながら……延王君がこちらにお越しになるのも、同様の理由ではございませんか?」
――出来る自信なんてない。でもその国に私が必要だと言うのなら……やってみようと思います。
ぎゅっと唇を引き、己を奮い立たせるように翡翠の瞳に力を込めて自分を見上げたかつての陽子の姿が、脳裏に甦る。
登極に手を貸した縁。
胎果の誼。
雁の難民を減らすための方策――。
尚隆が陽子を援助するのは、さまざまな理由がある。
雁として慶という国を援助するというだけならば、もっと割り切った方法がいくらでもある。
だが、こうしてわざわざ時間を割いて陽子を訪れ、彼女の息抜きを図る気持ちの底には、浩瀚の指摘する通り、傷つきながらも真っ直ぐ前を見つめるその魂を、出来うる限り護ってやりたいという想いが確かにあるのだ。
目の前のこの男に見抜かれるのは、非常に癪だったが。
――いや、同じような想いだからこそ分かるのか。
「成程な。……浩瀚」
「はい」
「王としてだけでなくそれが大切だというのなら、誓え。必ず長生きさせると。それの死に目を俺に見せるな」
威圧を込めて言い放った尚隆の視線を静かに受け止め、浩瀚は一礼した。
「――はい。必ずや」
――あなた様に言われるまでもなく。
声に出さなかった男の言葉が聞こえた気がして、尚隆は愉快そうに笑った。
***
「そろそろお目を開けられてはいかがですか?」
背後の四阿が木々の間に隠れた頃。
園林を進みながら、浩瀚は腕の中の少女に告げた。
からかいを含んだ声に呼応するように、そろりと瞼が上がり、翡翠の瞳が現れる。
「……いつから気付いていた?」
「お目覚めになった当初から。お抱き申し上げた後、身じろいでおいででしたが、その拍子にお気づきになったのでは?」
「……うん」
「寝たふりを決め込んでおられたので、私も知らぬ顔をしておりましたが」
「起きるに起きられない状況というものがあるだろう」
ため息を付いて、陽子は自分を抱き上げる男を軽く睨んだ。
「――わざとだったんだな?」
「何のお話でしょう?」
「私が起きているのを知っていて、ああいう、ああいう恥ずかしいことを延王に……」
「はて、恥ずかしいことなど申し上げた覚えはございませんが?――ああもしや、拙がいかに主上に骨抜きになっているかという話ですか?」
「だから、そういうことをいちいち口に出すなって……っ!」
褐色の手が伸び、浩瀚の口を塞ぐ。
が、相手はその程度で怯んだりはしなかった。
少女の手ごと、男はぐっと顔を近づけた。
「全て偽らざる拙の本心。主上はもちろん、誰に知られたとて何を恥ずかしがることがございましょう?」
指の隙間から、低い美声が響いて洩れた。
「みっ、耳元で囁くなっ!」
頬を赤く染め、下ろせと騒ぎ出した少女の要求を、浩瀚は、なりません、と、一言で却下した。
「主上」
「何だ!」
噛みつくように答えた陽子に、浩瀚は表情を改め、諭すように告げた。
「恥じらいは、私の申し上げた言葉にではなく、延王君の前で熟睡なさったことにこそお感じいただきたいのですが」
「うっ……」
ぴたりと、少女の抵抗が止まった。
「……たしかに延王には失礼なことをしてしまった。それは反省している」
「御本人は失礼どころか役得とお考えかもしれませんが、そうではございません」
陽子は首を傾げて男の顔を見上げた。
「どういうこと?」
「その愛らしい寝顔を、私以外の異性の前で晒さないでいただきたい、ということです」
琥珀の目を細めて、浩瀚はさらりと続けた。
「あなたの寝顔を愛でるのは、私だけで十分だと思いませんか?」
「なっ……!」
駄目押しされ、陽子の体温は更に上がった。
何か言い返そうにも、上手く言葉が出てこない。
「…………浩瀚の」
「はい?」
「浩瀚の……馬鹿」
ようやくそれだけ呟くと、くすくすとどこか嬉しそうに笑う男の衣に顔を押しつけ、陽子は赤く染まった頬を隠したのだった。
<終>
2009.07.01
【改】2020.04.15