六周年記念SS。
『花泊』は、晩春の季語『春の泊』から作った造語です。
花泊
「ご気分が優れぬご様子。如何なさいました」
女王の執務室となっている、積翠台。
下官が退室し、二人きりになったところでそう問われ、陽子は読んでいた書類から目を上げた。
「――分かっているくせに聞くな」
一瞬、王としての表情が剥がれ、拗ねた少女の顔が覗く。
「お前は残念に思わないのか」
「無論残念でございますとも」
「とてもそうは見えないぞ」
微笑を浮かべている浩瀚を睨み上げていた陽子は、やがて書類の上に物憂いため息を落とした。
「昨年は、慶と巧の
十年ほど前、桜の景勝地に出かけて以来、この時期に『視察』と称して共に花見に下りることが、半ば恒例となっていた。
それが初めて破られたのが、昨年だった。
そのため、陽子はまだ肌寒い内から今年の花見をそれは楽しみにしていたのだ。
しかし、そんな彼女の気持ちを笑うかのように、蝕は再び巧国を襲い、一昨年以上の荒民が慶に押し寄せた。
ちょうど、下界から桜の開花の報がぼちぼち届き始めた頃だった。
結果、増えた仕事に溺れている内に、あっけなく桜は散ってしまったのだ。
「ですがあの時、『巧国を助ける。荒民を出来うる限り受け入れる』と即断なさったのは、主上でございましょう」
「巧の民を思えば当然だろう?
「ご決断を悔いておられぬのに、桜をご覧になれなかった事を惜しまれると?」
「それはそれ、これはこれだ」
駄々っ子のような論理に、浩瀚は低い笑い声を漏らした。
「随分と強欲でいらっしゃる。存じませんでした」
「言っただろう。私にだって、色々私欲はある。それに」
挑むように見上げていた翠の瞳の力がふっと緩み、逸らされた。
「……楽しみにしていたのは、桜だけじゃないんだ」
共に出かけること自体が楽しみだったのだと言外に告げられ、浩瀚の胸に暖かいものが広がる。
午後の光に染まった緋色の髪に触れたい気持ちをぐっとこらえ、代わりに少女の方へ身をかがめた。
「私も同様でございます。しかし、主上が残念に思って下さると分かっておりましたので、我慢が出来たのです」
ひそめた声で告げると、その場にしばし沈黙が広がった。
「…………本当に」
やがて、俯いたままの少女から、ぽつりと言葉がこぼれる。
「お前は嫌味なほど口が上手い」
「本心でございますれば。ですが……」
さらりと、浩瀚は続けた。
「実は、私もそろそろ限界でございました」
「えっ?」
翡翠の瞳が上がる。
仄かに赤く染まった頬が、外見相応の少女のようで愛らしかった。
「処理を急ぐ書類は、今その卓にあるもので終わりです。主上でしたら夕刻までには仕上がりましょう。今宵、桜を観に行きませんか?」
「えっ?だが桜はもう……」
北の雁まで行けば、まだ咲いているのかもしれない。
しかし急ぎの書類は終わっても、この案件の為に脇に押しやられていた日常の書類がまだたまっている。
他国にまで足を延ばせる余裕は無いはずだった。
陽子の内心を読み取ったように、浩瀚は緩く頭を振った。
「国外ではなく、もっと身近な場所へ。昨年ご覧になった園林の奥の桜を覚えておいでですか?」
「もちろん覚えているが……まさか、あれ、まだ咲いているのか?」
目を見張った少女に、浩瀚は微笑んで頷いた。
「確認いたしましたら、散り始めでしたが奇跡的に。宮の主のお心を汲み取ったのかもしれません」
ご一緒に夜桜見物に行きませんか、と再度誘われ、
「もちろん行く!」
力強く答えると、陽子は勇んで卓の上の書類を取り上げたのだった。
***
その夜。
日付が変わる頃合に、陽子は正寝を抜け出し浩瀚と落ち合った。
蒼い月光に照らされた夜の園林は、驚くほど明るかった。
金波宮に住み暮らす者達も、殆どが眠りに就いている時刻。
聞こえるのは、春の香りを含んだ風に揺れる葉ずれの音のみ。
軽装に身を包んだ陽子は、その静けさを壊さぬよう足音を忍ばせ浩瀚の後に続いた。
同じく簡素な私服姿の浩瀚は、灯籠を提げたのと反対の手に細く長い棒のようなものを持っていた。
「それ何?」
「後のお楽しみでございます」
先行する男は顔半分だけ振り返って、悪戯っぽく笑った。
奥に進むにつれ、周りの木々は整えられた園林から人の手の入っておらぬ雑木林になり、道も獣道へと変化した。
そんな中、時折差し込む月光と灯籠の明かりだけを頼りに進むこと幾許か。
突然林が切れ、目の前に空間が広がった。
昨年見たのと同じ景色だった。
古びた四阿と、その前に広がる大きな池。
そしてその奥には――。
「……本当だ。まだ咲いている」
月光に浮かぶ桜の大木があった。
全体に花は残っているものの、既に花精が尽きかけているのだろう。
撫でる様な微風にも、さらさらと花びらを零している。
「綺麗だな……」
思わずため息が出た。
昨年、青空の下で見た時ももちろん美しいと思ったが、月明かりの中で音もなく花びらを降らす様は、幻想的で神々しくすらあった。
「近くへ参りましょう」
浩瀚の声に頷いて、陽子は止まっていた足を踏み出した。
池を回り、桜の根元へ辿り着く。
浩瀚が持ち上げた明かりを追って上を仰ぐと、低い枝のあちこちに何やら釣り下がっているものが見えた。
「あれは……灯籠?」
「はい」
浩瀚は例の棒の先に布切れを巻き、手持ちの灯籠から火を移した。
そして枝々にぶら下げられたそれへ、手際よく火を点していく。
「……うわぁ!」
柔らかな光に、薄桃色の花々が浮かび上がった。
月光を受けた姿は近寄り難いほど神秘的だったが、灯籠の明かりに照らされた桜は、優美でほっとするようなぬくもりがあった。
「綺麗だな……」
目を細めて陽子は呟いた。
いつまで観ていても、飽きないと思った。
「この灯籠、浩瀚が準備したの?」
「はい。
そこで、何か思い出したように言葉を途切らせた男に、陽子は振り返った。
「浩瀚?」
浩瀚は、一瞬躊躇ったように黙した。
しかし、やがて桜を仰いだまま答える。
「本当は、主上のお気晴らしの為に、ここで鈴や祥瓊、虎嘯らも交えて小宴を催そうかとも考えたのです。しかしいざとなると――私と主上しか知らぬこの場所を、誰にも教えたくないと思いました」
苦い笑みを浮かべ、浩瀚は隣の少女へ目を向けた。
「愚かな独占欲をお笑い下さい」
「……いや」
陽子は手を延ばし、浩瀚の髪に付いていた花びらを取り除いた。
普段そつない男の、子供のような一面が嬉しくて愛おしかった。
「……そうだな。ここは二人だけの秘密の場所にしよう」
衣に隠された浩瀚の手に、そっと指を絡める。
力強く握り返された温もりに微笑んで、陽子は再び桜を見上げた。
暖かな春の夜。
二人は並んで、静かに花びらを散らす桜を眺め続けた。
<終>
2013.06.03