『振り向きながら、顎をつかんで肩越しに接吻』
このシーンを書きたくて、できたお話です。
主上にそんな不敬なことをしでかすからには、浩瀚にはもう少し出世してもらわないと…と
思い、大公になっていただきました(笑)。
後釜の冢宰は、若手で一番浩瀚に近いタイプと思われる夕暉で。
四阿
その日の政務は、とても少なかった。
午後もさほど経たぬ内に書卓の上を綺麗に片付けた女王は、最後の書類を冢宰に渡しながら首を傾げた。
「今日はこれだけなのか?随分少ないな」
手渡された書類に軽く目を通し封をしながら、若い冢宰は端整な顔に笑みを刷いた。
「例の新しい商業政策の件で、ここ数ヶ月主上におかれましては毎夜遅くまで政務にお励み頂きました。これでやっと目処が立ちましたので、少々休息をお取りいただこうと思いまして」
――手を回しました。
さらりと告げられ、女王は目を丸くした。
「本当は一日休日を差し上げたかったのですが、それは難しかったので……半日でお許し下さい」
女王は、すまなそうに謝る冢宰をしばし見つめ、軽く息を吐いた。
「……そんなに私を甘やかすと、その内後悔するぞ」
「そうでしょうか。主上はもっと周りに甘えられても良いと思いますが」
親しみをこめた視線と共にそう言われて、少女は苦笑した。
「……段々似てくるな」
誰に、とは、共に口に出さなくても分かる。
「あの方に似ていると言われるのは、官吏としてこの上ない栄誉です」
「くれぐれも、性格までは似てくれるなよ」
声に真剣さを滲ませて告げられ、青年は伸びやかな笑い声を上げると、遥か昔……二人が出会った頃の口調になって答えた。
「本人に、言うよ?」
「……やめてくれ。私が苛められてもいいのか?」
慌てる主に青年はもう一度笑顔を向けると、優雅に一揖した。
「では私はこれで失礼いたします。どうぞ大公に宜しくお伝え下さい」
青年にからかわれた気がした少女は一瞬釈然としない表情を見せたものの、彼の紛れもない好意の計らいに免じ、聞き流すことにした。
「ありがとう。じゃあお前の言葉に甘えさせてもらうよ」
緋色の華が咲いたような鮮やかな笑顔に、若い冢宰は満足そうに頷いた。
***
突如背後に感じた柔らかな重みに、浩瀚は読んでいた書物から目を上げた。
「主上」
肩越しに振り返れば、自分の首に手を回した少女の顔が間近にあった。
「いかがなさいました?」
気配を消して近づき、四阿の窓枠から身を乗り出すようにして抱きついた若い女王は、この奇襲に全く動じない男の態度に拗ねた表情を見せた。
「少しは驚いてくれてもいいのに」
「十分に驚きましたとも」
面白くない、と、顔に書いてふくれる少女に優しく笑んで、浩瀚は彼女の小さな顎に手を添えた。
そのまま引き寄せると、瑞々しい朱唇をついばむ。
陽子の顔が僅かに赤く染まった。
このように愛情を示されることに未だ慣れぬ少女の様子に、浩瀚の笑みは自然と深まった。
彼の勧めで四阿の中に入ると、陽子はその隣にすとんと腰を下ろした。
「実は、冢宰に暇を出されたんだ」
「夕暉に、でございますか?」
「ああ。半日だが休みをくれた」
背後の背もたれにもたれると、陽子は男を見上げてにやりと笑った。
「だんだん前任者に似てきて、困っている」
「それは頼もしいことですね」
前冢宰にして現在の大公・浩瀚は、涼しい顔でそう答えた。
「ここ最近、例の政策の件で主上は随分お忙しくなさっておいででしたからね。夕暉も気を利かせたのでしょう」
陽子は夫の顔をじっと見つめた。
「……お前が手を回したのかと思っていたが」
「夕暉の判断があと一日遅ければ、そうしておりました」
――彼は、やはり見込んだ通り優秀な官吏ですね。
しれっと告げる夫に、陽子は声を上げて笑った。
「なるほど。夕暉は私にじゃなく、浩瀚に気を利かせたんだな」
大公はそれには答えず書物を閉じると、女王に優しく問うた。
「それで、この休日をどうなさいますか?」
「うーん」
浩瀚の肩にもたれながら、陽子は考え込んだ。
「どうしようかな……。突然だったから、実は何も考えていないんだ」
堯天に降りるには時間が少ないし……。
呟きながら考えていると浩瀚の手が伸び、ゆっくりと陽子の髪を梳き出した。
浩瀚に髪を撫でられるのは好きだった。
心地よさに目を閉じると、柔らかな眠りの波を感じる。
自分では平気だと思っていたのに、やはり随分疲れが溜まっていたらしい。
――やっぱり、今日は堯天に降りるのはやめよう。
「……こうして……」
「はい?」
「こうして、浩瀚と一緒に居られるのが、一番贅沢な休日だな……」
聞こえた呟きに、浩瀚は軽く驚いて、肩にもたれた妻を見下ろした。
少女は既に安らかな寝息を立てていた。
照れ屋な彼女は、滅多にこの手の言葉を口にしない。
それゆえに、時折零れる少女の心情は、浩瀚の心に痺れる様な幸福感をもたらす。
周囲に人が居なくて、良かったと思う。
今の自分はきっと、情けないほど表情が緩んでいるに違いない。
「……まったく貴女は」
眠る緋色の女神の頭に口付けを落として、浩瀚は呟いた。
「これ以上私を夢中にさせて、どうしようというのですか?」
しばらく後、四阿にお茶を運んだ女御が見たのは、夫の膝枕ですやすや眠る女王と、優しい表情でそれを見守りながら読書に耽る大公との、仲睦まじい姿だった。
<終>
2007.08.05